豪雨地域に住む人々の気象学の知的レベルと気象災害
―高校地学を必修化すれば、天災被害は激減する−
三重大学・生物資源学部・共生環境学科
気象・気候ダイナミクス研究室(立花研)
教授・立花義裕
2014年9月6日更新
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この文章は、消防科学総合センター発行の「消防科学と情報」110号(2012年秋号)に寄稿した拙著「豪雨地域に住む人々の気象学の知的レベルと気象災害」に若干の推敲を加えたものである。
日本列島は激しい気象現象が起きやすい、世界でも希な場所に位置している。そして紀伊半島はそのなかでも世界有数の多雨地域である。2012年9月の台風12号。この台風により紀伊半島地域の多くの市町村で未曾有の被害が発生したことは周知の通りである。それに関して、災害の原因調査や今後の対策等が盛んに議論されているが、これまであまり言及されていなかった点、「気象知識教育の普及度」に絞って私見を述べたい.
個人の身を自然災害から守る術。生きるか死ぬかに近い状態で究極の判断を即刻求められる状態においては、その個人の持つ地球科学の知識の深さに大きく依存すると私は感じる。例えるなら、それは悪天候中の登山での行動の判断と類似した状況である。個人の地球科学的知識の深さが人命を救えるのかどうか?について、先の3.11大地震時の津波被害を例にして考えてみたい。
地球科学の知識は人命を救う -3.11 津波の例-
地震発生時に東北の太平洋沿岸に住む全ての人々が巨大地震を実感した。この規模の揺れを感じた瞬間に、これは日本海溝のどこかで発生した地震であろうと多くの人は感じたはずである。さて、津波の速度が、gh(-1/2)であることは、地球科学を学んだ人であれば大抵知っている。g は重力加速度、h は水深である。この知識さえあれば、自分のところにはおおよそいつ頃、津波が押し寄せるのかが暗算で見積もれるのである。重力加速度は9.8 m/sec2と学ぶであろうが、大地震直後の動揺時に電卓をたたく余裕は無いのでg=10m/sec2 でよい。平均の海の水深を正確に知っている人は少ないと思うが、ざっくりと1km程度であるということはそれなりの知識人であれば知っているであろう。h=1000mとすると、は、きっかり100である。つまり、100m/secが津波のおおよその速さであることが揺れの直後に即暗算で計算できるのである。ということは60倍すると、1分で6km津波は進むことになる。日本海溝は海岸から200km程度沖合にあるので、津波到達まで40分程度であることが、暗算ですぐに計算できる。使う平方根は中学レベルであるがそれ以外は小学校レベルの算数である。40分というのは、ごく短時間である。それを暗算できた人は、緊急に高いところに逃げないと命が危ない。一目散に逃げるべきである、と即決できる。40分間、一目散に逃げればその人およびその人周囲の人命はおそらく救われたであろう。気象庁の地震情報を待たずとも行動に移れたのである。上記の知識は一部の専門家のみが知っている知識ではない。高校生レベルの地学や地理の知識レベルである。この架空の試算での教訓は、地球科学的知識が、自らの命を守ることに大きく貢献する。ということである。自治体によって地震直後の行動に差異が見られた事実はよく知られているが、素早い行動がなされた自治体には地球科学における知的レベルが高い職員がその職務に就いていたのかもしれない。三陸海岸が津波の常習地帯であるからこそ平時からそのような専門性を持った人材を確保し、万が一のために備えるべきであると私は考える。
紀伊半島は日本有数の多雨地域だからこそ、生活者は気象の知識が必要
主題である紀伊半島に話題を戻す。紀伊半島は本州で一番雨が多い地域である。その南東部はとりわけ降水量が多い。例えば三重県の尾鷲市の年平均降水量は、本州では一番である。また、尾鷲市は気象庁の測候所としての一日雨量の最多記録を持っている。三重県と奈良県の県境であり、吉野熊野国立公園内の大台ヶ原は、以前はアメダス雨量観測地点であったが、現在はそれが廃止されている。もしアメダスが廃止されていなければ、2012年9月の台風時におそらく数々の多雨の日本記録を塗り替えていたのではないだろうか。山岳地帯であり降水量観測点が無いために正確な降水量は分からないが年間5000mmにも及ぶ地帯であるともいわれている。このような日本有数の多雨地域である「おかげ」によって形成された国立公園の三重県側に位置する大杉谷を始めとした美しい峡谷地帯。手つかずの原生林と無数の滝。あまり知られていないが、この地域は西日本随一の原始景観にあふれる地域である。自然が奏でる美と危険は隣り合わせであることはよく知られているが、この地域も例外ではない.
紀伊半島が日本有数の多雨地帯に位置していることを鑑みると、当該自治体関係者および当該学校関係者は、大雨が降る理由や、どのような場合に豪雨になりやすいのか?などの気象学的な基礎知識を、日本一知っておかねばならないと私は思う。自治体関係者だけでなく、このよう多雨地域に住む人々は、もっともっと気象に関する知識を持つべきである。その知識が、有事の際、個人個人の適切な判断や行動をもたらすであろうし、自治体や学校の適切な判断や指示などがなされることにつながるはずである。これは冒頭で述べた三陸の津波避難の例からも明らかであろう。
地方自治体は地学を専門的に学んだ人材を積極的に採用を。。
では、実態はどうなのであろう。紀伊半島の自治体職員に気象の専門家がどの程度いるのであろう。専門家とまではいわなくても、気象予報士の資格を持った人、あるいは大学時代に気象学を学んだ人がどの程度いるのだろうか?小中高等学校ではどうだろうか?理科の先生が一番詳しそうであるが、気象に詳しい理科の先生はどの程度いるのだろうか?そのような専門性を持った職員はほとんどいないのではないだろうか?数年前に気象庁の気象測候所が相次いで廃止されたときに 、「人命を守るべき気象専門家がその地域からいなくなるので測候所廃止は困る。」という自治体側からの反対意見が出たことからも、元々そのような人材が自治体にはほとんどいなかったことを反映したと感じる。気象災害から地域を守るためには、自治体の職員採用の際には気象学の知識が豊富な人を積極的に採用してゆくべきではないかと感じる。学校の理科の先生の採用においても同様である。私の知人に、三重県のある地方自治体で働く気象予報士の資格を持った人がいる。彼は防災とは全く無縁な部署で勤務していることを嘆いておられた。どうしてそのようなことになっているのだろう。自治体の上に立つ立場の方には是非適材適所をご考慮願いたい。宝の持ち腐れである。気象予報士資格保持者等、気象に詳しい人を自治体が積極的に採用することを期待したい。
ほとんどの高校では地学を開講していない恐るべき実態
実は、世の中の風潮は良くない方向に進んできている。気象学の基礎的部分は高校の地学で学ぶことになっている。ところが、地学を開講している高校はごく希で、選択科目としている高校でも地学を選択する高校生は非常に少ない。これは全国的傾向である。そしてさらに悪いことに地学の履修者の減少が近年甚だしい。理科の4科目の中で最も軽視されている科目。それが地学なのである。
高校地学の必修化を。。
地学は、地球で起こるさまざまな現象のしくみを解明する学問で、地震火山、海流や海の波、そして私の専門である気象など、地球上での「森羅万象」を調べ解明する学問であり、防災関係者必須の科目といっても過言ではない。地球を知ることは、防災意識の素養を培うことにつながり、地学は、生きるために必要な学問なのである。天災多発国の日本。高校地学を必修化し、地球で起こりうる様々な自然現象の基本を理解している国民の数を増やし国民的なボトムアップを図ること、そして各界のリーダーの地学についての知的レベルを上げること。これが長期的視野にたった国の防災の基本のはずである。実は県によって高校地学の履修率には大きな差がある。ある県での高校地学開講率はたったの5%である。本州一の多雨地域を有する三重県も開講率は高い方の部類ではない。日本のリーダーを担う人材が輩出されてきたいわゆる進学校の低履修率が際立つことも問題である。三重県などの多雨地域では他県に先駆けて、地学教育を必修化すべきであると私は思う。
紀伊半島が雨が多い理由についての気象学の基礎知識
本稿の締めとして、紀伊半島の南東部が本州で一番の多雨地域である主たる理由をいくつか述べたい。まず地形にその原因がある。紀伊半島南端の潮岬から三重県側の海岸線の方向が南西から北東に向かって延びている。急峻な峡谷を始めとする多くの谷が、海岸線と直交方向、つまり南東から北西方向に伸びそれが奈良県側へ向いている。海上の湿った空気が、南東から北西方向に向かう風とともに、谷筋に沿って山岳地帯へ向かって流れると、空気が強制的に水平方向に集まりさらに強制的に空気が上昇し、水蒸気が集まるために降水量が増す。これが最初にあげるべき地形原因である。このような地形原因は、かならずしも南東斜面である必要はない。なぜなら、海岸線と直交した谷があって、海から海岸に向かって風が吹けばどの向きに海岸線が向いていようとも、同じ事が起こりうるからである。それでも,やはり南東向き斜面が最も多雨となるのである。では第二の原因を述べよう。雨は低気圧によってもたらされる。低気圧は反時計回りの渦である。低気圧の中心の北東側の風向きは南東風となる(南東側から北西側に吹く)。そして日本列島の南側は太平洋が開けている。日本では、谷を南東斜面に有している地域はおしなべて周りの地域よりも降水量が多い。南の太平洋には暖かい黒潮が流れている。暖かい黒潮によって暖められた湿った空気が南東風とともに上陸し、地形効果によって空気が集まり、大雨をもたらすのである。暖かい黒潮上をより長く通過する位置は、南東斜面に他ならない。これが第二の理由である。実は最近の研究で、黒潮が周囲の海よりも際だって高温であることが、黒潮周囲の降雨に影響していることが最新の衛星観測や数値シミュレーションなどから明らかになってきた。紀伊半島の突端の潮岬に黒潮がぶつかっている。つまり、紀伊半島が南に突き出た地形をもっていて他の地域よりも圧倒的に黒潮に隣接していることが、紀伊半島に際だった降雨をもたらすのである。従って黒潮とそれに隣接した地形要因が第三の理由である。第四の理由は、台風である。台風も反時計回りの渦であり、上述のプロセスが働く。それに加えて台風は一般の低気圧よりも遙かに強風である。強風によって、地形による強制的な空気や水蒸気の集中が強化されることにより、多雨となるのである。海面水温が一年で最も高温である月が9月である。従って黒潮上の大気の水蒸気の量も9月が最も多い。そして9月の平均的な台風の経路が、紀伊半島を通過するのである。ちなみに7月は九州方面、10月は東日本方面を通過することが多い。つまり紀伊半島は、図らずも大雨をもたらす必要条件の多くを満たす日本の中で極めて希な地域なのである。2012年9月の台風12号の場合は、台風の移動が極めてゆっくりであった。従って大雨に好ましい条件が長期間持続したことが大雨に拍車をかけた。それでは何故移動がゆっくりだったのだろう。台風の移動経路とその速度は上空の大規模な空気に流される。従って高層の大気の流れを注視する必要がある。それに加えて移動や経路の予測を困難にさせている要因に、台風自身が周囲の気流の強さや向きを変えうることが最近の研究で分かってきた。つまり台風は周囲の気流に流されるのであるが、台風自身も周囲の気流を変えてしまうのである。台風12号の移動速度が極めて遅かった原因も台風自身が周囲の気流を変えたことかもしれない。この部分はまだまだ研究途上のプロセスであり今後、我々気象学者が解明してゆかねばならないことであると感じる。
さて、以上に記した気象学としては極めて基礎的な事柄を、主たる読者である関係自治体の皆様はどの程度ご存じなのであろうか?
もし常識であったならその自治体は安心であろう。もしそうでないのであれば、どうすればよいか?今一度お考えいただければ幸いである。
上記の私の意見と極めて類似した主張がなされているwebを見つけたので、リンクを張っておく。